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渋谷の殺傷事件で思うこと

先日、渋谷で起きた中3の少女が面識ない親子を殺傷してしまった事件。

こういうのを見るたびに、自分の高校時代を思い出し、カウンセラーの仕組みがあったら違ったのかなと思ったりする。

フツフツと自分の中で溜めこんで、人に向けてしまう前に。


中学・高校時代はいろんなことが起こる。

世界が違うように見えたり、自分のアイデンティティが大きく揺れ動くステージだろう。

私も自分は何者なのか、相当悩んだ時代だった。


もちろん、カウンセラーさえいれば犯罪が止められるかというとそんなに簡単なことではない。

ただ、あってはならない事件であり、彼女の中で何が育ってしまったのか。

切ないなぁと思いながら見ていた。


何かあってから相談体制を作るのではなく、定期的に安心して話せる場があれば良いのにな(予算の課題はあるんだけどね・・・)


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アメリカでの話だが(注:私がいた地域の経験)、高校には複数名の常駐カウンセラーがいて、全員、高校の4年間を通じての専任のカウンセラーが決まっていた。

高校は授業の取り方が単位取得制で、誰一人として同じ時間割はなく、自分で自分の方針を決めることが求められる。学年の1/3は卒業後就職、トップはハーバード目指すみたいな公立高校で、一番キャリアに悩む時期。

かつ、日本のような「担任」はいないので、進路や単位の取得の相談、その他諸々、カウンセラーに定期的に話して決める仕組みになっていた。


そして、カウンセラーだけに、勉強以外のことも相談できた。

ドラッグで何度も入院しちゃう子もいたり、思春期で情緒不安定になることもある時期に、家族や先生以外の人で定期的に何となく会う機会があり、駆け込み寺にしても良い人の存在を知っていたことは大きかった。


実際、私も当時付き合っていた彼が、親が離婚し、母は家を出て行方不明。父は空欄の小切手を残して消え、子どもたちだけで生活している、みたいな感じで、こりゃどうしたものかと相談したことがある。

彼と私とカウンセラーさんの3者セッションみたいなのも、やったなぁ。


アドバイスをくれることもあるが、喋りまくって一緒に「困ったねぇ」と言ってもらって終わることもある。取り合えず自分が抱える何かを手放せてすっきりする場だった。


今思うと、授業とは関係ない、純粋なプロのカウンセラーが手の届く距離にいつもいるって、すごいことだったな、と思う。


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日本はカウンセリングやコーチング、メンタリング等、誰かに課題を話すことにまだハードルがある。

相談するって弱い人がやること、恥ずかしい、みたいな。


私もセッションを提供しているが、30-40代の方でも「ここまで自分のことを話したのは初めてです」と言われたのは一度や二度ではない。


相談は、別に弱いからするのではない。

「相談」って単語がイマイチなのかも。

英語の「I just need to talk」とかみたいな感じが良いな。


現状がイヤという気持ちは、どうにかしたい、前を向きたい証でもある。

進みたい方向があるなら、そこがよりワクワクするように話したって良い。


大きな悩みは話しやすいが、実は解決すべきは実は小骨のようにチクチク気になることだったりするのだ。


高校時代くらいから、小骨を話す体験をしてもらい、大人になって「昨日、自分のコーチと話しててね」みたいな会話がもっとフツーになると良いな。




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