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ネス湖で

ダイアナ妃の追悼ミサに参列した後、わたしは11時半のネス湖行きのバスに乗った。

ドライバーは「アーカート城まで行っても、ダイアナ妃の葬儀の日だから、入れないと思うよ」と言ってくれたが、わたしにはこの日のこの時間しかネス湖に行くことができなかったので、行くしかなかった。

アーカート城(Urquhart Castle)はネス湖のほとりにある城跡で、14世紀にはスコットランド独立戦争の舞台となったところだという。敵方の手に落ちるのを防ぐために部分的に爆破されたりしたこともあって荒廃し、今では廃墟のような「城跡」になっているのだが、スコットランドでもかなり環境客に人気が高いお城らしい。

そのため、普通ならネス湖に行くなら当然アーカート城も当然見学するはずだったのだが、この日はダイアナ妃の葬儀だったため、観光施設や商業施設も喪に服するために営業時間が制限されていたのだ。14時以降はオープンするところもあったが、わたしはこの日のうちにインバネスからエジンバラに戻り、エジンバラからロンドンに戻る予約済みのバスに乗らなくてはならなかった。そのためには14時過ぎにインバネスからエジンバラに向かうバスに乗らなくてはならなかったため、14時に施設があくまで待てなかったのだ。

ネス湖についたときは、寒くて、雨が降っていた。
アーカート城は道路から少しだけ離れ、本当にネス湖のほとりにあるのだが、ドライバーが忠告してくれたように、道路からアーカート城へ向かうためのゲートは閉じられていた。
やはりダイアナ妃の葬儀のため、当時通常日曜日に公開されていたアーカート城の敷地も閉ざされ、立ち入り禁止になっていたのだ。ここまで来て、遠目からでもネス湖が、おがめたから、よしとするか・・・。
そう思ってみていると、城のフェンスを上って向こう側に行く人たちがいるではないか。
もちろん、「不法侵入」である。
でも、わたしはそうやって塀の向こう側に行ってきた人に「どうでした?」と聞かずにはいられなかった。すると、彼らは「行ってみる価値はあるよ(It’s worth going to see!)」と答えるのだ。

ダイアナ妃。
わたしはあなたの死を悼んでおります。この時間、喪に服する時間だということも承知しております。
だがしかし、わたしはあなたも知る極東アジアの日本から期間限定でこの地を訪れている日本人で、ロンドンはともかく、スコットランドのインヴァネスからネス湖にくることは、おそらく生涯で二度とはないでしょう。
ですから、今日、この塀を上ることを許してください。
・・・・そして、わたしは塀をこえた。
ジーンズで行動していたので、塀を上るのも超えるのも大したことではなかった。

ネス湖は、湖というよりはとてつもなく幅の広い川のようだった。湖なのになぜか水の流れが速く、わたしは小学生の頃に見た大雨のために氾濫しそうになった豊平川(札幌)を思い出した。垂れ込めた空のもとに勢いよく流れるネス湖を前にしてたたずむアーカート城を見ると、たしかにここにネッシーが出てきてくれたらなんと絵になることか、と思わずにはいられなかった。

ネス湖の眺めにも満足したが、インバネスに戻るためのバスは2時間くらい先までなかった。寒い日だったので、待合室もないところでじっと立ってバスを待つのもつらかった。道は1本しかなかったので、迷いようもない。てくてくてくてく、歩くこと30分。多少はすれ違う車もあったが、ほとんど誰にも会わずに歩いた。それでも、なんだか楽しかった。

ようやくバス停があるところにたどり着いても、次のバスが来るまでまだ1時間以上時間がある。うれしいことにそこには日本のドライブインのような軽食をとれる場所があり、わたしはそこで昼食をとることにした。実はこの日もランチを持参していたのだが、あまりに寒かったので、室内で休み、温まりたかったのだ。

メニューをみると、「ハギスのトースト添え」があるので、紅茶とともに頼んでみた。
ハギスはスコットランドの伝統料理で、茹でた羊の内臓(心臓、肝臓、肺)のミンチ、オート麦、たまねぎ、ハーブを刻み、牛脂とともに羊の胃袋に詰めて茹るか蒸した詰め物料理の一種である。言葉で聞くと一瞬ひるみそうになるが、食べてみるとスパイスとハーブが効いているためか予想していたほどのクセもなく、そぼろ状になっているのでわたしは全く違和感も感じずにおいしくいただいた。ちなみに、わたしが食事をしたところは本当に簡易な店だったので、トーストに程用分量のハギスが添えられていたほかにサラダが添えられていたくらいだったと思うが、本格的なスコットランド料理の店ならもっと違った形で盛り付けられるのかもしれない。

沢山歩いて食事をしてインバネスに戻るバスに乗ると、バスの中の暖かさもあってインバネスまでうとうとしてしまったが、何せ景色が面白くて、何とか起きていようと睡魔との戦いだった。
インバネスの町に戻りると、葬儀の間閉店していた店も営業を開始しており、日曜日らしい賑わいを取り戻していた。でも、街のあちこちに、ダイアナ妃にささげられる花が飾られていた。
インバネスからはエジンバラに戻る途中には天気も回復し、わたしは眠気と闘いつつもバスの車窓からの景色を楽しんだ。この夜のバスで、わたしはスコットランドからロンドンのVictoria Coach Stationに戻った。9月7日の早朝にCoach stationについたとき、一週間前の朝にわたしにダイアナ妃の死を伝えたポーターを見かけたが、彼は何事もなかったかのような顔をして働いていた。

ダイアナ妃の追悼ミサ(インヴァネス・聖アンドリュー大聖堂にて)

9月6日のダイアナ妃の葬儀の朝、「ダイアナ妃は自分がもうすぐ死ぬなんて思っていなかっただろうな」と思いながら、わたしはインヴァネスの聖アンドリュー大聖堂のダイアナ妃追悼ミサに参加した。

ミサの始まる10時に協会にいたのはほどんど女性ばかり12-15人くらいで、予想していたよりもずっと少なかった。表の張り紙には「ダイアナ妃のために祈りたい方はどなたでもどうぞ」と書かれていたけれど、キリスト教徒でもなく、明らかに異国人のわたしはできるだけ隠れていたくて、他の方とは離れて柱の陰の席に座った。でも、ミサの前に牧師さんが「もしミサに最後まで参列されるなら、他の方のお近くへどうぞ」と声をかけてくださり、わたしは他の方と一緒に30分ほどのミサに参列した。
(今ならいくら何でも柱の陰に隠れたりはしなかったと思うが、あの時は自分から参加したくせに気が引けて仕方がなかったのだ)

ミサのすべてを理解したわけではないけれど、牧師さんのダイアナ妃を悼む言葉はやさしくて、あたたかかった。

そのあと、薄くて白く、味のないおせんべいのような聖体を口に入れられ、参加者全員で赤葡萄酒(それは「ワイン」ではなく、「葡萄酒」という方が似つかわしかった)のグラスを回し、一口ずつ口に含んだ。
促された時はクリスチャンでもないわたしがいいのだろうかと思ったが、牧師さんに促されるままに聖体を口にし、葡萄酒を含んだとき、これでいいのだという気がした。

牧師さんに言われるままに他の方たちと手を握り合い、「Peace be with you!(平安があなたと共にありますように)」と言葉をかけあった。ひっそりとした、静かなミサだった。通りすがりの異国人で異教徒のわたしもわだかまりなく参加させていただけたことに、感謝した。

ちなみに、この日ロンドンのウェストミンスター寺院で行われたダイアナ妃の葬儀の最後の方でエルトン・ジョンが歌った曲を覚えておられるだろうか。
ダイアナ妃に向けて“Goodbye England’s Rose”という歌いだしに変えて歌ったその歌を聞いた時、それまでの葬儀で涙をこらえていた二人の王子が初めて涙をこぼしたと翌日の新聞に書いてあったのを思い出す。

エルトン・ジョンのその曲の原曲「Candle in the wind」は亡くなったマリリン・モンローを悼んだ歌で、「Goodbye, Norma Geane」(ノーマ・ジーンはマリリン・モンローの本名)と歌いだすそれをダイアナ妃を悼む詩を書き換えたその曲のCDは、発売されるや否やチャートの1位になり、CDショップでもずっと売り切れだった。
何度も耳にしたし、わたし自身とても好きな曲だけれど(元の曲も、ダイアナ妃バージョンも)、ダイアナ妃の葬儀にこの曲の替え歌が使われたことには内心びっくりしてもいた。
わたしは個人的にはマリリン・モンローは好きな方だけれど、スキャンダルも多かった彼女を悼む歌をそのままダイアナ妃の葬儀に使うことを許可されたことも、ダイアナ妃が離婚しているとはいえ元皇太子妃だったことを考えると、日本でなら絶対に誰かがその曲は不適切だと止めていそうで、「誰か止めなかったのかな?」と驚いたし、不思議にすら感じた。

ハリウッドでスターになりはしたけれど風の中のろうそくのようにはかなく孤独な人生を送って消えていったマリリン・モンロー。
全く違う存在ではあるけれど、人々に愛されもてはやされもしたけれど、やはり孤独な魂を抱えたまま風に吹き消されるように突然不慮の事故でなくなったダイアナ妃。
2人の存在がどこかで重なることからも、この曲が長く愛されたのかもしれないけれど。

そしてわたしはダイアナ妃を悼むミサのあと、ネス湖に向かうバスに乗ったのだった。

ダイアナ妃の追悼ミサの前に・・・

9月6日(土)のダイアナ妃の葬儀の朝、わたしは聖アンドリュー大聖堂の追悼ミサに参加させていただいた。

ダイアナ妃が亡くなるまで、わたしはダイアナ妃に対する特別な思い入れはあまりなかった。
ダイアナ妃が1986年に初来日してダイアナフィーバーと呼ばれるブームが起こった時は、なんと美しい人がいることかと思ったし、本当に映画の中のプリンセスのような人が現実にいるのだなとびっくりしたものだが、だからと言ってダイアナ妃の髪形をまねようなどとはつゆほども思わなかったし、わたしにとっては全く違う世界の人だった。

わたしが渡英する前年の1996年にダイアナ妃は正式にチャールズ皇太子と離婚していたが、ダイアナ妃のニュースは日本でもたびたび取り上げられていたので、ロンドンで荘厳なセントポール大聖堂を初めて訪れた時は、「ここで神様に永遠の愛を誓った2人(しかも一般人ではなく王室の方)でも、別れることがあるのだな」などと不謹慎(?)な感慨を覚えたりしたものだ。

また、イギリス国内にはダイアナ妃の熱狂的な崇拝者もいる一方で、わたしのホームステイ先のシルビアは「知的階級の人たちからは、ダイアナ妃は『美しいだけのお馬鹿さん』とみられている」と言っていて、イギリス国内でもダイアナ妃への見方はいろいろだった。
わたしもどこかで、(おそらくダイアナ妃が結婚してからまだ数年経ったか経たないかくらいの頃の英国の風刺番組を取り上げた番組で見たのだと思うが)、「ダイアナ妃のおな~り~!」というファンファーレの後に出てきたダイアナ妃の美しい人形が『私、美しすぎるのが悩みなの』」と微笑む、という日本なら不敬罪で処分問題になるのでは?という映像を見て仰天したことがある。

1997年にはダイアナ妃はすでに一般人になっていたとはいえ、たびたびニュースに取り上げられていた。いちばんわたしの記憶に残っていたのは、1月に内戦の影響で地雷が多く残るアンゴラを訪問し、対人地雷の全面禁止を訴えるために白いシャツに顔を覆う透明なカバーと万一の時のために体を保護するカバーをつけて、1人で地雷原を歩く姿だ。もちろん事前に十分に安全を確認したところを歩いただろうし、万一に備えて救急隊なども待機させてのことだったと思うが、万一のことは十分ありうる。
伊達や酔狂でできることではなく、地雷原を歩くダイアナ妃の映像を見た時に、わたしは初めて「この人は本気で平和活動やチャリティに取り組んでいるんだな」と思った。

1997年の6月には自分のドレスのオークションを行い、売り上げをエイズ・がん患者に寄付したというニュースも好意的に報道されたが、正直に言ってその大量のドレスが公費で購入されたものだと思うと、手放しで賛辞もできない気がした。もちろん、そのまま箪笥の肥やしになるよりははるかに貢献されたわけだし、わたしは英国で納税していたわけではないので、文句をつける筋合いはないのだけれど。

また、国内でもダイアナ妃への関心は高かったのか、王子2人に普通の体験をさせてやりたいと学校を休ませて映画に連れて行った、などといったニュースまでよく流れていたので、「映画を見に行くために学校を休ませるのは普通じゃないのに」と100%一般家庭出身のわたしはやはり違和感を感じてもいたし、執拗なパパラッチの取材から逃れられなかった事情もありつつも、恋人とのデートの模様まで報じられ、わたしはダイアナ妃本人よりも、2人の王子が気の毒だった。

ダイアナ妃の死は悲劇だったけれど、亡くなり方にしても、「子供二人を置いて恋人との旅行中に亡くなった」と思うと、決して美化できない気もした。

でも、ダイアナ妃が亡くなった後、沢山の人が彼女について語っているのをテレビで見て、新聞で読んだ。
彼女が沢山の人を励まし、力を与えたことは本当のことだし、ダイアナ妃は確かに彼女にしかできないことをしたのだと思う。
彼女がチャリティなどに打ち込んだのも、決して人気取りではなかった。
例えばわざわざ危険を冒してアンゴラの地雷原を歩かなくても、彼女が発言したり、アンゴラに行くだけでもある程度の注目は集められる。
それでもあえてのすることで、地雷問題にこれ以上にない形で注目を集め、注意を喚起することを選んだのは彼女自身の判断のはず。
彼女は確かに、他の人にはできないこと、彼女がするからこそ意味があることをやってのけたのだった。だから、わたしはダイアナ妃の死を悼むミサに参加させていただくことにした。

エジンバラからインヴァネスへ

お城も見た、美術館もみた、その他にスコットランドで見るべきものは?

スコットランドはイギリスでも北端にあるのだから、もしこの後帰国後にイギリスを訪れることがあっても、そうそう来ることはできない。

それなら、この機会に、スコットランドの名所、ネス湖(Loch Ness)をみにいこう!

実はわたしの兄妹は恐竜の類が大好きで、てっきりみんなが一度は「ドラえもん」や「アンパンマン」に興味を持つことがあるように、「恐竜好き」もみんなが一度は通る道だと思っていて(妹も)、社会に出てからそうではないとわかって本当にびっくりしたくらいだ。
そのため、恐竜ではないにしても、ネス湖のネッシーにも子どもの頃から興味があったのだ。

さて、ネス湖に行くならもっと早くに動けばよかったのだが、エジンバラもなかなかに見どころが多くて、9月5日(金)になってからインヴァネス地方行きのバスに乗ったことがこの後のスケジュールを苦しくするのだが、まあ、詳細はおいおい、ということで。。。

ロンドンからスコットランドの首都・エジンバラまではバスの往復チケットを買ってある。
だから、ネス湖のあるインバネスまで行くために、エジンバラーインバネスに別途チケットを買うことにした。

夜行バスでエジンバラに来た時にはなんせ窓の外は真っ暗だったから、インヴァネスまでの道すがら外の風景をみていると、とても新鮮だった。

なんというか、北部だからか土地がカーペットをかぶったような景色は面白かった。
ついうとうとしたくなるのをこらえて、目の前に広がる景色に見とれた。見たことがない景色の広がりは、見飽きることがなく、面白かった。

ただし、インヴァネスについて大きな荷物を持ったままネス湖まで行くのは面倒だと思ったのと、ユースホステルの部屋を確保しておきたかったので(エジンバラのユースホステルで空き状況確認のために電話を入れたところ、「空き部屋がたくさんあるから予約不要」と言われたのだが、アムステルダムであやうく宿なしになる経験をしたので、まずは宿を抑えたかった)、まずはユースホステルに部屋を取り、荷物を置いてからバスステーションに戻ろうとしたとき。。。。まずいことに気が付いた。
ネス湖行きのバスは、インバネスを出発したばかりだった。
つまり、ユースホステルに来ずに、インヴァネスに到着してすぐにネス湖行きのバスを探していればこの日のうちにネス湖に行くことができたのだが、そのバスを逃してしまったのだ。しかもそのバスはこの日最後のバスだった。

さらに悪いことに、翌日の9月6日(土)はダイアナ妃の葬儀の日だったので、観光施設やお店も喪に服するまで14時までクローズすることになっていたのだ。
そして、翌日にロンドンに帰る夜行バスに乗るために、6日の16時にはインヴァネス発エジンバラ行のバスに乗らなくてはならない。
5日のうちに行っておきたかったのに・・・しまったと思ったが、もう遅い。
それでも、6日にも行くだけならいけないことはない。
わたしは最大限短いインヴァネス滞在を楽しむことにした。

マクベスの城ともいわれるインヴァネス城を見学したりアートギャラリーに立ち寄ったりしながらこじんまりとしているが落ち着きがあって美しい街を散策した。

ぶらぶらお土産物店などをみていて目に留まったのは、アザミのブローチだった。アザミはスコットランドの国花だったのだ。その時までわたしにとってアザミの花は、北海道北見市という、夏は30度を超え、冬はマイナス20度を下回るわたしの故郷で妹が生まれた夏に、これでもかと咲き誇っていたアザミだった。
イギリス北部にあるスコットランドも、やはり冬の寒さは厳しいのだろう。そう思い、旅の記念にアザミのブローチを一つだけ買った。

また、聖アンドリュー大聖堂(St. Andrew’s Cathedral)に立ち寄った時、「明朝ダイアナ妃を追悼するミサを行います。ダイアナ妃を悼む方はどなたでもご参加ください」と張り紙があった。
わたしはしいて言えば仏教徒だが(でも、日本の家庭によくあるように、実家には神棚も仏壇もあり、神社にもお参りに行くが毎月お坊さんが月参りにくる家で、母は仏教幼稚園で教師をしていたが、わたしたち兄妹はカトリック系幼稚園に通い、同居していた父方の祖母は金光教の教会に通う、という宗教的には混沌とした家庭だった)、それでもよいのか教会の方に聞いてみると、それでも良いとのことだった。
こんな機会はめったにない。
参加させていただこう。

ユースホステルに戻る途中、もう一度インヴァネス城の前を通ると、タータンチェック着た男性がバグパイプを吹いていた。そういえば、エジンバラのユースホステルでも、窓の外からバグパイプの音が聞こえていたものだ。
そして、9月6日(土)のダイアナ妃の葬儀の朝、わたしは聖アンドリュー大聖堂の追悼ミサに参加させていただいたのだった。

忘れられない光景~ホリルード宮殿とカールトン・ヒル

1997年9月4日(木)にホリルード宮殿(Palace of Holyrood)を訪れて最初に目に入ったのは、宮殿の前に置かれた沢山の花々だった。

ダイアナ妃が8月31日(日)に亡くなり、9月6日(土)に葬儀が行われたのだが、国中であちこちにダイアナ妃を悼む花々があふれていた。

ホリルード宮殿前の花々の中に、一つだけ「To Prince Charles」と書いたカードを付けられた花束があったことが印象的だった。

ホリルード宮殿はスコットランド女王メアリの居城だったこともあり、メアリ女王の部屋や彼女の髪の毛の展示もあった。

ホリルード宮殿はエジンバラ城ほど大きくはなかったが、居城として美しく装飾されており、特に天井の装飾はとても美しかった(余り天井が高くなく、じっくり見られた。) 

前日に見切れなかった美術館を見てもまだ宿に戻るのは早かったので、カールトン・ヒルCarton Hillに行ってみることにした。

実はわたしもエジンバラに行くまでカールトン・ヒルのことは知らなかったのだが、結構有名な観光名所らしいとしり、ちょっと興味があったのだ。
カールトン・ヒルは名前の通り丘なのだが、丘全体が公園となっている。
Wikipediaによると、この丘はエディンバラ城が建つ「キャッスル・ロック」と同様古代には火山で、「過去、この丘は、ハンセン病患者の居留地、処刑場、埋葬地として利用され、洗濯物干し場でさえありました」とのこと。

いくつもの記念碑や建造物が建っているのはいいのですが、意味不明なのが「ナショナル・モニュメント」。なぜにスコットランドの丘の上にギリシャのパルテノン神殿まがいのものを作らねばならないのか?
実は今回これを書くためにWikiってみて、「ナポレオン戦争での戦没者を記念する目的で建設さたが、途中で予算が尽きてしまい、未完成のままになっている」という事情を初めて知った。地元では「エディンバラの恥」と嫌っているそうな。
でも、この丘からの眺めは本当に素晴らしくて、イギリスで忘れられない景色の1つになった。

エジンバラ城とスコットランドの忠犬ハチ公

皆様、ご無沙汰しております。
こちらのブログ、諸般の事情で昨年の10月20日から約80日ぶりの更新です。

かなり間があいたので、「えーっと、どんなブログだっけ?」と首をひねった方、初めて読みますという方に少しだけ説明させていただきますね。

わたしは大学卒業後は地方公務員として就職したのですが、どうしても英語の勉強をしなおしたくて、そして英語をいかした仕事ができるようになりたくて、仕事を辞めて1997年の1年を渡英してボランティアをしたり、英語を学んだりして過ごしました。

前回までは1週間の旅行を終えて深夜バスでリバプールからロンドンに戻った直後にダイアナ妃が亡くなったことを聞き、さらにその次の週をスコットランドで過ごすためにまた長距離バスでスコットランドはエジンバラにやってきたところ、でした。
(初めての方は、お時間のある時にこれまでのブログもお読みいただけると嬉しいです)

それでは、スコットランドツアーの続きをお送りいたします。

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エジンバラでYMCAに滞在していた間、わたしは初めて2段ベッドの「ドミトリー」を利用した。
さすがに男女混合ではないとはいえ、一つの部屋にいくつもの二段ベッドが置かれていて、最初はどうも落ち着かなかったが、すでに1週間そこに滞在しているという女性が「ここは快適」というのを聞いて安心したし、何せとても便利なところに立っていたので、次第に抵抗感は消えた。

スコットランドのお城、エジンバラ城も見に行った。
エリザベス女王もおとずれるという宮殿は、ロンドン近郊の城よりももっと城塞の雰囲気があった。

ロンドン近郊のウィンザー城は、どこか「宮殿」然としていたが、スコットランドの城は戦いで守る「要塞」の雰囲気が強かった。

ちなみに、このエジンバラ城では毎年8月に「ミリタリータトゥー(Edinburgh Military Tattoo)」という大規模な軍楽祭が行われる、と現地にいって初めて知った。
今なら移動中でさえスマートフォンやPCでインターネットで調べることも可能だが、その当時はスマートフォンもなく、ノートPCはかなり高価なものだったから、わたしは「地球の歩き方・イギリス版」と現地のインフォーメーションセンターで収集する情報がたよりだった。
それはともかく、「もう少し早くに来られていたら、見られたのに。。。」と残念に思った。

そして、エジンバラの隠れた観光スポットも訪れた。
それは、エジンバラのハチ公ならぬ「グレーフライアーズ・ボビー(Greyfriars bobby)」の銅像とお墓だった。
グレーフライアーズ・ボビーは、スコットランドの首都エディンバラのグレーフライアーズに実在した犬(犬種はスカイ・テリア)で、ボビーの飼い主はエディンバラ市警に夜警として勤務していたジョン・グレイ氏。
ボビーとグレイ氏は二年間片時も離れることはなかったが、1858年2月15日、グレイ氏は結核でなくなり、エディンバラの旧市街にあるグレーフライヤーズ教会を取り囲む墓地(Greyfriars Kirkyard)に埋葬された。
ボビーはそののち14年間、残りの生涯をグレイの墓の傍らで過ごしたそうで、それが。とはいっても、食事の時間には、墓地の裏手にあるレストランにいって食事をもらっていたし、おそらく冬には近くの民家で寒さをしのいでいたらしい、とのこと。

その後の経緯がなかなか興味深いので、Wikipediaよりそのまま転記する。

「1867年、飼い主のいない犬は処分されるべきであるという判断がなされた。しかし当時のエディンバラ市長(the Lord Provost of Edinburgh)であり、またスコットランド動物虐待防止協会の理事でもあったウィリアム・チェンバースは、ボビーのライセンスを更新し、市議会を新たな飼い主とすることでボビーを保護した。
ボビーは1872年に死亡したが、墓地に埋葬されることはなかった。墓地は神聖な大地と信じられていたため、犬を埋葬することはできなかったのである。代わりに、ボビーはグレーフライヤーズ教会墓地の門のすぐ外側に埋葬された。そこは、飼い主であるジョン・グレイの墓からほど近い場所であった。
ボビーの墓には赤い御影石で作られた墓標が立っている。これは、1981年5月13日に、スコットランド・ドッグ・エイド協会(The Dog Aid Society of Scotland)が贈り、グロスター公爵リチャードによって除幕式が行われたものである。そこにはこう書かれている。「グレーフライヤーズ・ボビー – 1872年1月14日死去 – 16歳 – 彼は、主人への忠誠と愛情とは何かということを、私たちに教えてくれる。」

さて、エディンバラ城も見た、美術館もみた、その他にスコットランドで見るべきものは?