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エジンバラ初日+旅行中の食事

8月31日の夜の長距離バスでVictoria Coach Stationを出発したわたしは、スコットランドの首都、エジンバラに到着した。

当時の自分の日記を見ると、「エジンバラまでの旅は悪くなかった。ドライバーが面白くて、隣に女の子が座ってくれたから」と書いてある。
もしかしたら現在はイギリスでもバスの座席を選ぶときに女子専用席を選べたりすることもあるのかもしれないが、当時のイギリスでは隣に誰が座るかわからず、一晩過ごすわけでもあるので、やはりできるだけ女の人に座ってほしいといつも願いながら夜間長距離バスを利用していた。

エジンバラの町は、不思議なにおいがした。なんというか、香ばしいような、スパイスが混ざったような、おいしそうな、でもちょっと癖のあるようなにおいだった。最初は近くにパン屋でもあるのかと思ったがそうではなく、エジンバラの中心部にいる間、わたしはずっとそのにおいを感じていた。

この時も宿は現地で取ることにしていたので、「地球の歩き方」に書いてあったユース星輝に行ったが、11:30にならないと受付もできないといわれて駅に向かい、荷物をコインロッカーに預けてから駅でダイアナ妃の死について報じた新聞を買って、リバプールから一緒にロンドンに戻ったトルコ人の女性からもらったリンゴと梨を朝ごはんにかじりながら新聞を読んだ。

今こうして書いていても、なんだか不思議だな、と思う。わたしはこう見えて臆病なところもあるので(しかも当時はいまよりかなり若かったし)、バックパッカーもどきの旅行なんてできない、と思っていたのに、気が付けばやってしまっているのだから。

エジンバラはスコットランドの首都だけあって、美術館も多い。ユースホステルの受付時間には予約にいったりしつつ、Museum of Childhood(「子供時代博物館」、時代を経たおもちゃの展示だけでなく、子供時代の過ごし方の変遷の歴史も見られる), People’s Story Museum(「みんなのお話博物館」、18世紀から現代にいたるまでの一般の人たちの生活の歴史を展示)、Museum of Edinburgh(「エジンバラ博物館」、エジンバラの街の歴史についての博物館), John Knox’s House(「ジョン・ノックスの家」博物館、16世紀のプロテスタントの改革者ジョン・ノックスの記念館、ただしわたしはこの方のことをあまり知らずに見に行ってしまった気がする)などを見て歩いた。

ちなみに、わたしは一人旅の時はあまりきちんとしたお店できちんとした食事をとることがない。とにかく見たいものも多いし、食事に時間をとるよりは、美術館で絵を堪能したり、バスなども使って少し足を延ばして街歩きをする方が楽しかったのだ。そして、お行儀は悪いけれど、当時のイギリスは大人であっても「食べながら歩く」ことは一般的で、大人でもサンドイッチなどをかじりながら歩いている人が結構いたので、わたしも歩きながらりんごをかじるくらいのことは平気でしていた。だから、長時間歩き続けても結構平気だったのだ。(だが、帰国後しばらくたってからトム・クルーズ主演の映画「バニラ・スカイ」を見た時、確かペネロぺ・クルスがよくスーパーで売っているようなパック入りのサラダを食べながら歩いているシーンを見たときには、さすがにこれはないだろう、と思った。)

この日、わたしは珍しく小さなティールームに入った。小さなお店だったが居心地がよく、沢山の種類から紅茶を選び、お店の手作りのスコーンにバターとジャムをつけていただいたのだが甘すぎず、かなりおいしかった。イギリスというとどこの家でもお母さんがスコーンをしょっちゅう焼いているようなイメージがあるかもしれないけれど、わたしはイギリス滞在中、どこかの家でその家のホームメイドのスコーンやケーキをいただいたことは一度もない。わたしの知っている女性がみんな働いていたということもあるし、お菓子やケーキが比較的安く買える、ということもあったと思う。ちなみにわたしが時々スーパーで買っていたわりと大きめのレーズンスコーンは、10個入って1ポンド(当時のレートで160円位)だった。

食の話題ついでに書いてしまうと、夕食は宿の最寄りのスーパー「Tesco」へ。都心部の店舗は割高だが、普通の住宅にあるTescoは激安だった。長―い3斤の食パンだって0.5ポンド(当時のレートで80円位)。最初見たときは見間違いかと思わず二度見してしまった。

エジンバラ初日の夕食は、パンと缶入りトマトスープに紅茶。ユースホステルはキッチンも使えるし食器も使えるのでありがたい。それにしても、こうして1日の食事を見てみると「少しは動物性たんぱく質もとりなよ」と当時の自分にゆで卵くらい差し出したくなるのだった。

ダイアナ妃が亡くなった日。

1997年8月31日の朝、Victoria Coach Stationでポーターに「ダイアナ妃が死んだ」と聞かされてにわかには信じがたかったが、朝7時26分の電話に乗り、シルビアの家に向かった。

実はわたしはカレッジのコースが始まる日まで2週間のブランクがあったので、シルビアの家を出てから1週間をリバプール、次の1週間をスコットランドで過ごすと決めていたのだ。

そして、その間にロンドンに戻ったこの日は、夜のスコットランド行きのバスに乗るまで、シルビアの家で過ごさせてもらうことになっていた。

1週間ぶりのシルビアの家に着くと、彼女の息子のチャーリーが一人でテレビを見ていて、ダイアナ妃の死についての番組を見ていた。

「どのチャンネルもこの話だよ」という彼と少し話してから、シャワーを浴び(車中泊だったので)、選択をし、スコットランドは少し寒いかな?と思いつつ、温かめの服に着替えた。

この家でモーリスに再会できたことは、やはり嬉しかった。

リバプールに行く前にPromsに行って以前彼とテレビでみたオペラ「Count Ori」を見たことを話すと、「それは良い経験をしたね」ととても喜んでくれた。

この日はわたしもシルビアの家で日曜日のディナー(昼の「ディナー」)をごちそうになった。

ヨークシャープディング、ローストビーフ、ベークドポテト、ゆで野菜にレモンムース。

わたしはリバプールではかなり簡単な食事しかとっていなかったので、きちんとした食事をするのはシルビアの家を出てから初めてだった。

シルビアの息子チャーリーが興奮し、娘のメリッサは舞い込んできた蜂に大騒ぎし、というこの家でのおなじみの食卓風景もこの家らしいなあ、と味わった。

食事の後はこの家に住んでいた間ずっとしていたように大量の食器や鍋を洗ったが(この頃、すでにイギリスでは一般家庭にも食器洗浄機がかなり普及していたが、それでも手洗いしなければ落ちない汚れもかなり多かった)、その様子を見ていたモーリスが「今週でいちばんの洗い物だね」とほめてくれた。この家に彼がいてくれて、本当によかった。

そのあと日本の家族や、学生時代の友人に手紙を書いていた。

というのは、年賀状だけの付き合いだったその友人が、わたしの実家に電話をかけてきたと母が私に書いてよこしたためだった。

急にどうしたのかな、と思いつつ彼女に手紙を書いていると、電話が鳴り、チャーリーがやってきてわたしにだという。

?????と思いつつ出てみると、なんとそれはわたしがまさにその時手紙を書いていた友人からだった。

実は彼女が10月にロンドンに来るので、会いたいという。

もうシルビアの家をでていたわたしがたまたま立ち寄ったその時に電話がかかってくるなんて、しかも彼女に手紙を書いている時だったので、その偶然に本当に驚いた。

もう下宿人ではないのだから早くにシルビアの家を出ないと、と思いつつ、延々と続くダイアナ妃関連の番組を見ずにはいられなかった。

モーリスは余りにどこのチャンネルもそればかりなの異常だといい、「特に自然界に興味はないが、延々とダイアナ妃の話を聞いているよりもこっちのほうがいいから」と別の部屋で昆虫の生態についての番組を見ていた。

シルビアはややシニカルな現実主義者なので、「におうわよね。どう考えてもQueen Mother(エリザベス女王の母上)が逝くのが先じゃないの」とつぶやいていた。

とうとう夕食までごちそうになってから、またVictoria Coach Stationに向かった。

今度は夜行バスで初めてのスコットランド、エジンバラへの旅の始まりだった。

チェスター訪問と、1997年8月31日。

1997年8月30日。

前日のひとりBeatlesツアーの疲れもなくはなかったが、荷物をまとめてYWCAに預けると、電車に乗ってチェスターに向かった。

あなたはチェスターという地名を聞かれたことがあるだろうか?

わたしはイギリスに行ってから「地球の歩き方」をめくっている時に初めて知った気がする。

チェスターは長い歴史のある都市で、西暦70年ごろローマ人が要塞を構えたところから城塞都市としての歴史が始まった。

インターネットの情報をまとめさせていただくと、

「400年頃ローマ人が撤退した後はアングロ・サクソン人が移住、その後もデーン人(ヴァイキング)の侵入を防ぐために城壁を拡張して要塞都市を形成し、11世紀になるとイングランド全土を支配したノルマン人が居住、という変化をへつつ城壁が拡張されていき、1120年ごろには街の四方を城壁が取り囲む形になっていたらしい。

その後貿易の中継地点として栄えたものの、17世紀にリバプールが交易都市として力を伸ばすようになると徐々に衰退、17世紀後半には、清教徒革命における国王軍の最後の拠点となり、多大なる損害を受けたものの、その後城壁を含む街の大半は再建され、産業革命時には、近郊のマンチェスターやリバプールから富裕層が流入。

現在では美しい街並みと古の歴史が共存する街として、高い人気を誇っている。」

とのこと。

いわば「普通の地方都市」であるリバプールから電車で40分のところに、まさに歴史を語る街があるのだから、それは足を運ばないと!である。

チェスターはあまり大きな街ではなく、ローマ式の碁盤の目状の道が密集していて、絵本の中に出てくるような中世の建築物の間を歩くのも楽しい、街歩きにちょうど良いところだった。

ここでもわたしは街歩き用の地図を買い、アンティークショップなどをのぞくのも楽しく、チェスター大聖堂やイーストゲート時計台などをめぐり、てくてく歩いた。

YWCAには18時ごろ戻るといって荷物を預けていたが、実際にわたしがYWCAに戻った時には19時半くらいになっていた。

わたしはこの日の晩にまた夜行バスでロンドンに戻る予定だったが、歩き回って疲れていたし、23時のバスの発車時間まで外にいるのも避けたかったので、お願いしてバスの発車時間までYWCAで過ごさせてもらうことにし、夕食もYWCAのキッチンで取らせてもらった。

海洋学者の男性と話したりテレビを見たりして休んでいると、わたしにバスの時間までYWCAにいることを許してくれた女性が、「もう一人、今晩のバスでロンドンに変える女の人がいて、22時半位にCoach Station行きの彼女のタクシーが来るのよ」と教えてくれた。

わたしはYWCAからCoach Stationまで歩く覚悟をしていたけれど、リバプールについた時も暗い中をCoach Stationから鉄道駅まで歩いてなかなか怖い思いをしたので、夜の23時近くに女一人であの道を歩くのかと思うとやはり不安があり(Eleanor Rigby像の近くで会ったおじいちゃんにも「夜は気を付けろ」と言われていたし)、ありがたくもう一人の女性のタクシーをシェアさせていただくことにした。

タクシーが予定よりも早くYWCAに到着したので、Coach Stationについてからバスの発車まで30分くらいはあったが、彼女と話していたおかげで、ちっとも退屈しなかった。

彼女は癌の研究者で、リバプール大学で癌の研究をしていたが、トルコに帰るところだという(滞在が長かったので、鞄が5つもあった)。

彼女も、YWCAにいた海洋学者の男性もそうだったが、海外から来ている研究者の方でわたしが出会った方たちは、非常に流暢で、わかりやすい英語を話していた。

わたしの父方の祖母が60歳になるかならないかくらいで胃がんで亡くなったと話すと、「日本のように医学が発達している国で・・・」と驚かれたが、わたしの子供のころのことだし、祖母もまだ比較的若くて煙草を吸う人だったから、進行が早かったのかも・・・などと話し、彼女の家族の話も聞いた。

バスに乗り込むときには彼女の荷物を運ぶのを手伝い、満席のバスに乗り込むと、途中で目を覚ましながらも、うとうとしながらロンドンへ戻った。

Victoria Coach Stationに到着したのは、朝7時ごろ。

トルコに帰る女性はガトウィック空港に向かうことになっていたが、彼女の荷物運びをわたしが手伝えるのもここまでだから、乗り継ぎをするにもさすがにポーターが必要だろうとポーターに声をかけた。

すると、インド系と思しき彼は、カタコトらしい響きの英語で、私の顔を見ながら

「Princess Diana was dead」(ダイアナ妃が死んだ)といったのだった。

(この彼の4wordsをはっきり覚えているのだが、考えてみればwasではなくて正解はisである。)

???????????????????????

You must be joking(何をおっしゃいますやら)、と返したが、彼はとてもまじめな顔で

「Last night, she was alive. Now, she’s dead.(昨日の夜は生きていた。でも、今は死んでる)」

という。

もう少し詳しく聞こうとしたが、彼は首を振って答えなかった。

というのも、この日1997年8月31日の深夜、ダイアナ妃はパリで恋人のドディ・アルファイド氏とパパラッチに追跡された後、交通事故にあい、早朝4時に亡くなったのだった。

詳細をポーターの彼が知らないのも当然だった。

朝のVictoria Coach Stationにいた人たちは、早朝にロンドンに到着した人、もしくは早朝に家を出てこれからバスで等でする人など、そのニュースを知らずにいた人が多かったのだと思う。

気が付くと、その場にいた人たちみんなが、驚いた顔でわたしとポーターの話を聞いていたのだった。

ひとりBeatlesツアー in Liverpool

まずお断りしておきたいのだが、わたしは何というか、「たしなみ程度にBeatlesが好きな人」だ。

だから、「アルバム全て持ってます」でもないし、「全曲知ってて、歌えます」でもないので、熱心なファンの方、ごめんなさい。

でも、「赤版」「青版」は買って聞いていたし、札幌にイギリスの老舗Beatlesトリビュートバンド「ザ・ブートレッグ・Beatles」がライブに来た時には思わずサッポロファクトリーまで足を運ぶくらいの「好き具合」ではある。

1994年のイギリス映画「バックビート」も見たし、そのサントラも持っていたし(のちに売ってしまったが)、その映画にも出てきたBeatlesの初期メンバーだったスチュアート・サトクリフの恋人だった女性写真家、アストリッド・キルヒヘルの自伝を読んでいるくらいの「好き具合」ではある。

おまけに、わたしは日本だろうが海外だろうか、地図を見て知らない街を歩くのが結構好きだ。

それで町のインフォメーションセンターでDiscover Beatle’s Liverpoolなんていうマップを手にしてしまったら、これは歩くしかないではないか。

リバプール中心部の「Beatles Story」というBeatlesは初日に見学したが、予想外に結構面白かった。

「Free as a Bird」という曲を、ご存じだろうか。

ジョン・レノンの未完成曲を残りの3人のBeatlesメンバー、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターが手を加えて完成させ、1996年にリリースしたものだ。

リバプールの風景もたくさん出てくるその曲のビデオクリップを、わたしはこの「Beatles Story」で初めて見た。

リバプールのタウンホールからグランドピアノが落下する場面を、わたしは今でも覚えている。

地図を見ながら、Beatlesが初期に出演していたCavern ClubやBeatles shopなど見ながら歩き、’Eleanor Rigby’という曲にちなんだ老婦人の像を写真に撮っていたら、60代前半くらいのアジア人のおじいちゃんに声をかけられた。

日本人は海外で若く見られるものだが、当時20代後半だったわたしはろくに化粧もせず、短い髪にジーンズで歩き回っていたから、わたしの年齢を当てようとする人たちがよく言ったのが「19?」だった。

だからだったのか、Eleanor Rigby像の近くで私に声をかけたおじいちゃんも、わたしが一人でイギリスに来て滞在していると話すと、’How brave!’と言ってくれた。

勇敢・・・一生自分には使わない言葉だと思っていたので、なんだかびっくりしてしまった。

おじいちゃんは「自分の祖父が中国からイギリスにわたり、自分はその三代目に当たる」などと教えてくれた。

彼は「(リバプールの街歩きは)昼間は大丈夫だけど、夜は気を付けなさい」と言ってくれた。

ひとりBeatles ツアーも美術館巡りと組み合わせて日を分けて行ったのだが、やはりマップにのっているすべての場所へ行くことは無理だった。

ロンドンではバスに乗りなれていたけれど、どういうわけかリバプールではバス停に立っていても、手を上げてもバスは一向にとまってくれず、町中に散らばったスポットを、わたしはひたすらてくてく歩いて回った。

映画「バックビート」にもでてきたセフトン・パーク、それぞれのメンバーが住んでいた家、Penny Lane、Strawberry Fields Foreverのモチーフとなったストロベリー・フィールド孤児院(救世軍子供の家)、ジョンのミミおばさんの家・・・次第に暗くなったのと、あまりにくたくたになったのとでこの日の夕方でBeatlesツアーは終了したが、こんなことでもなければ歩かないような住宅街もずんずん歩いたりして、これはこれでなかなか面白かった。

この日の日記の終わりには、「疲れすぎて夕食はあまり食べられないと思ったけど、たくさん食べた(I ate like a horse.←おそらく当時この言葉を覚えて使ってみたかったのでは(^-^))」と書いてあった。

そして翌日、わたしは行ってみたかった町、チェスター(Chester)へ向かったのだった。

リバプールで美術館めぐり

リバプールにいく、とシルビアに話した時、彼女に言われたのが、「あら、ユキは大学のある町が好きなのね」。

確かにケンブリッジにオクスフォード、ギルフォード(ルイス・キャロルのお墓のある町)、カンタベリなど、大学のある街には足を運んでいたけれど、リバプールに関しては、大学にはまったく興味がなかった。

カレッジのコースが始まるまでの2週間の時間を過ごすためにどこに行こうかと考えた時、一度も行ったことがなかったスコットランドと、美術館も多くて一人でビートルズツアーもでき、少し足を延ばせば中世の街並みが感じられるチェスター(イギリス国内では最良の状態で現存する城郭都市のひとつなのだそうだ)にも行けるので、リバプールを選んだのだ。

今となっては名前を忘れてしまったが、わたしがイギリスにいたころ、テレビで人気の女性司会者(なんというか、上沼恵美子をもっと上品にして親しみやすくした感じ)がリバプール出身で、彼女のリバプールなまりはたとえて言うなら東北弁のような温かさがあり、それにひかれていたことも影響していたかもしれない。

ちなみに、ポール・マッカートニーの話し方も、リバプールなまりが感じられる。

リバプールにはアングリカン大聖堂(なんでもここがイギリスで一番大きな教会だそうだ)があり、そちらの2体のキリスト像は、わたしのイギリスのおかあさん・ジルの住む町出身の女性彫刻家、エリザベス・フリンクの作品だった。

アルバート・ドックを散歩してからいよいよ美術館巡りのスタートだ。

リバプールには、Slavery Museum(奴隷博物館)、Maritime Museum(海事博物館)、 Sudley House(サドリーハウス)、Walker Art Gallery(ウォーカー・アート・ギャラリー)、World Museum(ワールド・ミュージアム)、Lady Lever Art Museum(レディ・リーヴァー美術館、ここのみポート・サンライト村)、その他、Beatles Storyというビートルズ博物館のようなところもあり、ほとんどが無料で見られたと思う。

さすがに一日で全ては見られず、リバプール滞在中に日を分けて見学したのだが、気軽にいろいろな博物館・美術館に足を運べるのは、うれしいものだ。

Slavery Museumにいって初めて知ったのだが、リバプールは奴隷貿易の拠点になったところだった。アフリカからたくさんのアフリカ人がリバプールに連れてこられ、そしてまたリバプールからアメリカに奴隷貿易船が出港していったのだ。

その航海の途中で、沢山のアフリカ人がなくなったという。

そういったリバプールという町にそういう一面があったことにも驚いたが、そのような暗い歴史を堂々と公開していることにもびっくりした。

日本だったら、ひた隠しそうな気がするので・・・。

Walker Art Galleryは、古い宗教画から近代画まで幅広いコレクションがあり、特にラファエル前派の作品群が素晴らしかった。

そして、彫刻の部屋に、ひときわ美しい少女の像があった。

それもヴィーナス像だったのかもしれないが、こんなに美しい像は見たことがない、と思った。

作者も作品名も全く覚えていないが、今でもわたしにとってはそれがいちばん美しいヴィーナス像だ。

ポート・サンライト村のLady Lever Art Museum(レディ・リーヴァー美術館、重要文化財建築物)へは地下鉄に乗っていったと思う。

ちなみに、Wikipediaによると、ポート・サンライトは、1888年に石鹸会社リーバ・ブラザーズ(現ユニリーバ)が石鹸工場で働く工場員の居住のために建設した村だそうで、村の名前はリーバ・ブラザーズ製品で一番人気があった『サンライト』という石鹸の商品名からつけられたとのこと。

ポート・サンライトにはレディ・リーヴァー美術館などの重要文化財建築物が900棟ほど存在し、1978年に保全地区に指定されているそうで、わたしが見学に行った日はあちこち歩き回るために限られた時間しかなかったが、もし時間があればゆっくりポート・サンライトで過ごしたいくらいだった。

「ポート・サンライト石鹸」会社の社長Lever氏が個人的に集めた美術品を、彼の石鹸会社の宣伝に使ったというユニークな美術館で、中には様々な画家の作品だけでなく、ウェッジウッドの陶器から家具、日本の鎧兜まであった(もちろん、これは宣伝にはつかわれてはいないのだけれど)。

石鹸の宣伝に使われていた絵画はどれも良い意味で生活感があり、とても親しみがわくものだった。

そして、確かLever氏が愛妻にささげたというこの美術館は、お庭もとても美しかった。

Sudly Galleryはあまり大きくはなかったけれど、ここもラファエロ前派の作品が充実していて、リバプール周辺にはずいぶんラファエロ前派の作品が充実していると驚いたものだ。

ちなみに、上記を書きながらインターネットで検索をかけていたら、なんと名古屋で「リバプール国立美術館所蔵 英国の夢 ラファエル前派展」(2015年10月3日(土)~12月13日(日))をしているではないか!

名古屋市美術館HPに曰く、「この展覧会では、リバプール国立美術館の所蔵品から、ジョン・エヴァレット・ミレイ、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハントらラファエル前派の作品をはじめとするこの流れにある作家たちの代表作約70点を紹介します。リバプール国立美術館は、リバプール市内及び近郊の3つの美術館(ウォーカー・アート・ギャラリー、レディ・リーヴァー・ギャラリー、サドリー・ハウス)と4つの博物館の総称で、特にラファエル前派の優れた作品を所蔵する美術館として世界的に知られています。今回はこの美術館の代表的な作品を日本で初めて大々的に紹介する貴重な機会となります。ぜひお楽しみください。」

これは、わたしに見に来いと言っているようなものだ。よし、絶対行く!!!

次回は、ビートルズツアーのお話を。。。

リバプール到着。

リバプールに長距離バスが到着したのは、早朝の5時半位。

さすがにその時間はバスステーションもクローズしていて、中で時間をつぶすことができない。

まだあたりは真っ暗で、しかも時々あるのだが、長距離バスの停留所は鉄道駅からは離れていた。

その場で夜が上がるのも待つのも躊躇されるくらい何もなくて、暗い中を地図を頼りにライム・ストリートの鉄道駅に向かって歩き出した。

駅のカフェが6時に空いたので紅茶とジャムドーナツ(考えてみたら、イギリスでフィリングが入ったドーナツで一番よく見かけたのはジャムドーナツだった)で時間をつぶし、まずしたことは、YWCAに部屋を予約に行くことだった。

渡英するまではユースホステルの2段ベッドの雑居部屋に泊まるなんて予想もしていなかったが、なんせ予算を切り詰めていたし、当時はわたしも若かったので、イギリスで旅行するときには身軽なユースホステルなどで十分だった。

しかも、リバプールのYWCAはとてもきれいで静かで、シャワーとトイレは共同だったが、部屋はきちんと個室だった。
早速そこで部屋の申し込みをし、荷物を置いてから街中に出かけた。

受付の時に言われたのかその後で言われたのか忘れたが、YWCAのご婦人に、「ここは通常は女性だけ受け入れるのだけれど、実は例外として今男性の入居者がいます。研究のためにリバプール大学に来ている海洋学者の方で、物静かな方で、お泊めしても問題なさそうだったから、長期滞在を認めたの」と言われた。

実際、インド出身のこの海洋学者の男性には何度も出くわし、短い会話もしたが、物静かで実に穏やかな人だった。

リバプール大学もなかなか大きな大学だったので、研究などのために長期滞在する人も多かったのだろう。

リバプールを立つ日に一緒にバスに乗り込んだ女性も、リバプール大学でがんの研究をしていた人だった。

リバプールは美術館・博物館がなかなか多くて、この日もいくつかはしごしたのだが、無料で入館できることができることが多いのもありがたかった。

美術館巡りについては、また次回。

PROMS!

この日わたしがロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall)に向かったのは、「プロムス」(The Proms。BBCプロムス、BBCプロムナードコンサートともいう)に行くため。プロムスはロンドンで毎年夏に開催される、8週間にわたっておこわなれるクラシック音楽のイベントである。

NHKBSでも毎年放送しているので、わたしの母も時々テレビで楽しんでいたし、ぜひともイギリス滞在中に見に行きたかったのだが、ロンドンからシルビア宅へ帰るのは1時間以上かかるので、夜7時や7時半から開催されるコンサートを見終わってから帰ることを考えると、どうしても無理があった。

この日は乗る予定のバスが23時出発だったので、Promsのステージを見てからバスに乗りに行っても全く問題がなかったのだ。

わたしは当日券を買うために2時間くらい外で並んだけれど、天気も良かったし、ハムステッド在住の物静かな建築家の青年が話し相手になってくれたので、ちっとも退屈しなかった。列に並んでいるほかの人たちも、リラックスした様子だった。

この日の演目はロッシーニ作曲のフランス語オペラ、「オリー伯爵」。

びっくりしたことに、わたしは以前シルビアの家でもモーリスと一緒にこの演目をテレビで見たことがあるのを思い出した。

だからあらすじもわかっていたし(1997年当時、日本では今ほどテレビ番組に字幕は頻繁に使用されていなかったと思うが、当時のイギリスではすでに「テレテキスト」という字幕が当たり前に使われていた。英語を母国語としない者にとっては、テレテキストは非常にありがたかった)、びっくりしたことに、主要人物のひとりはテレビで見たのと同じメゾソプラノ歌手だった。

「オリー伯爵」は内容は女たらしの伯爵をめぐる艶笑譚のようなもので、もともとあったお話にロッシーニが追加をして作り上げられたらしいのだが、内容はさておき、とても豊かなメロディーがわたしはとても好きだった。ちなみに、帰国後に「オリー伯爵」のCDを探したのだが、曲はとても美しいのだけれど内容があんまりだからなのか、なかなか見つけられなかった。

モーリスが「ワーグナーは口ずさめないけど、ロッシーニならいける」と鼻歌を歌っていたのを思いつつ、最後まで楽しんだ。

そして、生のオペラの余韻も冷めないうちに、23時発の夜行バスに乗り込んで、リバプールへと向かったのだった。

シルビアの家を出る

そして、約8か月半過ごしたシルビアの家を出る8月25日。

部屋を午前中に片付け、荷物の準備も整った。

実はわたしは、この時点までまだシルビアの家に下宿していたモーリスには自分が引っ越すことを話せていなかった。

もちろん、シルビアとその家族(娘と息子)には食事の時に「9月から学校に通う。ここからでは遠すぎるから、学校の近くに引っ越す」ということを話していた。

でも、この家で本当にわたしが心を寄せられるモーリスは、ここでの唯一の家族のような存在だったので、彼にこの家を出ると伝えることが、わたしにはとても辛かったのだ。

シルビアとモーリスは家主と下宿人という間柄ではあったけれど、茶飲み友達的な関係でもあったので、もしかしたらシルビアから「ユキは8月末でこの家を出ることになっているのよ」と聞いているかも、という淡い期待もあった。

けれども、お昼頃にいよいよ出発しようとするわたしの姿を見て、モーリスはわたしがまたどこかに日帰り旅行にでも出かけるのかと思ったらしい。

わたしは週末になるとほぼ毎週どこかに出かけていたし、泊りがけの旅行にも行ったことがあったから、わたしが’I’m leaving’といっても、まるでわたしがすぐにでも帰ってくるように「いっておいで」といつものように送り出そうとする。

やはり彼は何も知らなかったのだ。

事前に自分で話しておかなかったことを今更のように後悔しながら、ここをでること、9月からはHarrowのカレッジに通うから、ここからは遠すぎるので引っ越すこと、今日から1週間の旅行に行くけれど、次の週末にはこの家に来ること、今後も遊びに来ていいとシルビアが言ってくれたことなどを話した。

彼は、寂しそうな顔をしていたと思う。

小柄な人だったが、「これはフランス式のあいさつだからね」とわたしをハグして、頬にキスしてくれた。

そうしてシルビアの家を出て、夜行バスが発着するVictoria Coach Stationに荷物を預け、大英博物館に立ち寄り、リバプールに向かう夜行バスの出発の時間を過ごすためにわたしが向かったのは、ロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall)だった。