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渡英まで

実は、一度は父の反対を押し切れず、自分も公務員を辞めることに躊躇があり、本当に父の反対を押し切って地方公務員を辞めるまでには、約1年かかった。

実はその間にわたしは比較的温暖な室蘭市から苫小牧市に転勤しているのだが、たまたま、その年は「雪害」と言われる、天災のような雪の多さだった。

わたしは苫小牧で道路維持計画や除雪計画にかかわる仕事をしていて、主要道道・一般道道ごとに除雪費用を振り分け、それも先に国のお金を使ってそれから道のお金を書く路線に振り分けるのだが、雪害のため何度か補正予算が付くと、最初からそのお金があったものとして、また国のお金から主要道道を優先させて道路ごとに割り振り、実績の金額も組み直し。。。の繰り返しだった。

確か1週間に1度、予算の割り振りと実績はもちろん道路ごとのわだち(雪が積もった上を車が走るとその分雪がへこむ、その深さのこと)の深さや天候(さすがにここは除雪業者にお願いして記録しておいてもらった)、その他内容は忘れたが、「そんなデータ、どこで生かされるのですか?」と思うようなデータを取りまとめて提出する必要があった。

公務員になって徹夜するとは思わなかったが、この冬の間、調査の締め切り前は徹夜したことも何度かあった。

また、苫小牧は北海道内でも普段あまり雪が降らないところなので、大雪になると途端にひどい渋滞になり、住民もパニックになった。また、札幌や岩見沢のように普段から雪が多いところと違い、大雪に慣れていない苫小牧の業者は、大雪の除雪に慣れておらず、除雪にも時間がかかるのだ。そのため、大雪の日はわたしは苦情の電話を取り続けた。

「うちの娘、2時間かかってもまだ職場についてないらしいんだけど?」

「車がうごかない、早く除雪に来て!」

「年寄りをいじめるのか!」(道道から引っ込んだところにある個人宅の家の前までは除雪をしないのだが、この方は45分間、「自分の家の前まで除雪をしてくれないのは今の世の中が悪い」と言い続けた。)

そんなこんなで、日中は落ち着いて仕事ができず、わたしはこの冬、朝起きてカーテンを開ける瞬間が怖かった。

カーテンを開けて雪が降っていると、吐き気がした。

もともと、仕事を辞めてイギリスに行くことを考えていた中で苫小牧への異動の話がでて、自分でやめる踏ん切りをつけられていなかったこともあり、「やはり公務員としてがんばろうかな」と思っていった苫小牧でこの雪害の冬に出会ってしまった。

当然のように体調を崩し、「やはり自分の目指す道はここではない」「自分の人生は、自分が本当にしたいことに取り組んでこそ」「わたしは、やっぱり英語を学びなおして、英語を使って人の役に立てる仕事がしたい」と心の底から実感し、今度こそきっぱり退職を決めた。

父の反対を本当に押し切ることができたのも、その覚悟ができてからだった。

 

退職後の数か月、わたしはアルバイトをしながらインターナショナル・インターンシップ・プログラムスに参加して日本文化を紹介するための準備をして過ごした。

自宅や大通公園などで写真を撮って教材にするためのスライドをつくったり、ほんのさわりだけでもとお茶やお花、着付けを習ったり。

「イギリスの子供たちがわたしをまってる!」と思うと、そういった準備もとても楽しかった。

また、それまでなんとなく日本の伝統的な文化も良いな、とは思っていたけれど、基礎から学んでみると、やはりとても興味深かった。他国の人に、しかも子供たちに自分が伝える、と思うと、見え方も違ってきた。

そして、1997年、1月からのイギリスでのボランティア活動の活動先が決定した。

年明け間もないその日、わたしは荷物を減らすために笑ってしまう位に丸々と着ぶくれて、母と妹に見送られ、新千歳空港を出発した。

父の反対

わたしの父は、相当まじめで、かなり頑固である。

どのくらいまじめかというと、若い時に体調が悪いのに出張しなければならず、営業車の窓から吐きながら出張したというくらいのまじめさである。

親がなくなっても半日は出勤したり、2週間のヨーロッパ出張から帰っても休みを取ることなく翌日はいつも通りに出勤したり、ひょっとして部下の方はちょっと迷惑だったんじゃないかというくらいのまじめさである。

そして、頑固さについても筋金入りで、わたしが幼稚園の時、父がおそらく初めてかくれんぼをして遊んでくれた(わたしが小さいころは父は本当に忙しく、家にいないことも多く、一緒に遊んだ記憶自体がほとんどない)時、わたしは父と兄をどうしても見つけられず、

「もう、こうさーん!」と叫んだのだが、それを聞いて出てきた父と兄を見て、「みいつけた!」といってしまった。父はわたしがズルをしたといって、「もうかくれんぼはしない」と本当に二度とかくれんぼをしてくれなかった。そのくらいの頑固さである。

念のため、父は無口で、現役時代は仕事がかなり忙しかったこともあって家族とゆっくり過ごす時間もなかったが、とても子煩悩な人である。

ある日、父に「公務員を辞めて、インターナショナル・インターンシップ・プログラムスに参加して、現地で英語を勉強したい」と話すと、案の定大反対された。

遊学のために公務員を辞める、という発想自体が、父にとってはありえなかったようで、「夢があっても食べていけなければ何にもならない」「夢なんて、そんな甘いこと!」・・・要約すれば「お前は馬鹿か」の一言だった。

数回話したと思うが、結局その時は父を説得しとおすことができなかった。それは、まだ自分の中で渡英の意思が固まり切っていなかったからだと思う。

この後実際に渡英を決めるまで、数回にわたって父を説得することになる。

最後の最後に渡英するために仕事を辞めることになるが、きっと父は最後まで内心では反対だったと思う。

夢のために、安定した仕事をなげうつのは、確かにリスクも大きいし、後悔することもあるかもしれない。それでも、自分が本当にしたいことなら、挑戦しないよりは挑戦したほうがいいと思う。わたしは、安定よりも、夢のある人生を選んだ。

そのほうが、楽しいから。

その選択は、自分の責任でしたことだと言えるから。

夢のない人生なんて、わたしは生きている甲斐がないと思うから。

 

 

インターナショナル・インターンシップ・プログラムスとの出会い

初めてのロンドンへの旅行に刺激を受け、「やはり自分は学んだ英語を活かして仕事がしたい」という自分の気持ちに気が付いたものの、当時のわたしはすぐにそれを行動に移すことができなかった。

土木部の出先機関で働いている自分が他部署に移れる可能性は限りなく低いとわかっていても、公務員という仕事は一生の仕事だと思っていたので、やはりやめることに対する躊躇があった。

やめてどうするのか?今の自分の英語力で仕事ができるのか?それで食べていけるのか?

今のわたしなら、「心身ともに健康でそれだけ若いなら、どうとでもなる!Go!」というところだが、当時のわたしは自分に対して無意識にたくさんのブロックをかけていた。わたしの両親はとても愛情深くわたしたち兄妹を育ててくれたが、世代もあってかかなりまじめな人たちで、「・・・・べき」「・・・してはいけない」が多かったこともあり、わたしも自分自身に「簡単に仕事を辞めるべきでなはい」「将来の安定が約束された地方公務員をつづけることで一人でも生きていけるから、それをやめるのはよくない」といった思い込みが強かったのだ。

民間企業では仕事を辞めずに留学することを認めているところもあると聞き、調べてみたが、当時の北海道庁ではそのようなことは認められなかった。どうしたものか・・・。

仕事をつづけながら情報収集をしていたある日、「インターナショナル・インターンシップ・プログラムス」というプログラムがあることを知った(http://ameblo.jp/cozy-room-japan/entry-12052485255.html)。

それは、プログラム参加者が英語圏の国で現地の小学校などで日本の文化を紹介しつつ、現地で英語を学ぶ、というものだった。日本の文化を紹介するという理念があるのもいいなと思ったし、普通に英語学校に行ったりするよりも、現地の方と交流できて生きた英語が学べるかもしれない。

ある程度の期間このプログラムが存続しており、元駐日米国大使夫人であったハル・M・ライシャワーさんがこのプログラムの名誉会長をされていたことからも、おそらくいい加減な団体・活動ではないと判断し、資料請求をして、札幌での説明会にも出かけた。参加された方のお話を伺い、ぜひこのプログラムに参加してイギリスにいきたい、という気持ちを固めた。ボランティア活動と言っても参加費が意外と高額で、滞在費も自分で払うことが必要だったが、それまでの貯金を使えばなんとか自分で賄えそうだった。仕事についても、本当に仕事で使える英語力を身に着けていれば、なんとか見つけられるだろう。

だがしかし。いちばん高いハードルが待っていた。

それは、「父の反対」だった。

9年前の原稿が出てきました

これからこのブログで書く内容を先に書いてしまうことにはなりますが、今日(日付がかわって昨日)自宅の片付けものをしていたとき、約9年前に自分が書いた原稿が出てきました。

その頃、何かのテーマでエッセイを書くような公募があればたまに応募していて、この原稿も引っ越し会社か運送会社が「新生活」や「夢」というテーマで公募したものに応募したものでした。

確か佳作か何かになり、佳作以上の作品が小冊子にまとめられて配布され、実家に持ち帰ったのを思い出しました。なぜか審査員の一人が辰巳琢郎さんだったこともぼんやり覚えています。

やはり今より9年前の原稿なので、昨日・一昨日こちらのブログを書いたときにはすっかり忘れていたこともはっきり書いていることに改めてびっくりしています。昨日・一昨日のブログについてはあえて今訂正することはしませんが、記憶が新しい時に書いたこちらの原稿で書いていることの方が正しいことので、後日ブログをまとめるときに、正しい内容でまとめなおそうと思います。

まずはその原稿を転記しますね。

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「夢見る蕾」(確かそんなタイトルをつけたような・・・うろ覚えです)

10年以上前のわたしは、コンビニさえも輝いて見える北海道の片田舎で働く地方公務員だった。大学で学んだ英語を生かす機会も、将来的にそのような機会に恵まれる見通しもないまま、単調な生活をしていた。これでいいのかと思うこともあった食いっぱぐれることのない仕事につけたことには満足していた。ところがある日、わたしはその田舎のスーパー内の書店で出会ってしまったのだ。6月の英国のバラが香り立ちそうな、美しい一冊の本に。

それはあるエッセイストの英国への愛情が滲み出た文章と、それにぴったりの写真で溢れた本だった。以前から英国の文化や雰囲気にはひかれていたが、その本を一人の部屋でつくづく眺め、わたしは思った。いつかきっと、ここへ行くんだ・・・。

海外旅行さえしたことのないわたしがまずしたことは、パスポートを取ることだった。そして書店の英国フェアで何の予定もないままロンドンのガイドブックを買い、そこでもらったロンドンの地図を、部屋のベッドの枕元にはり、ときにはそれを見上げながら眠った。気付けば友人を強引に誘い、一月のロンドンに降り立っていた。何度となく眺めた、あの地図も鞄に入れて。

数日間のロンドン滞在は十分期待を満たしてくれたが、一度頭の中で地図が立体的に立ち上がると、英国という国、ロンドンという町は一層わたしをひきつけた。あの街に住みたいな。あそこで暮らす人になりたいな。

それを実現するには、あきらめざるを得ないことがあった。公務員という職業は、遊学のための休職を認めてはくれなかった。そのために仕事を辞めるという娘を、父は馬鹿だと思ったらしい。確かにそうだった。それでも、膨らみかけた夢の蕾を摘み取ってしまうのは、いかにも惜しかった。たとえ咲かずに終わるとしても、せっかくついた蕾なら、なんとか育ててやりたいではないか。

1997年の英国。香港が中国に返還され、トニー・ブレアが首相になり、ダイアナ妃が亡くなったその年を、わたしは英国で過ごした。貯金を少しずつ崩しながらの生活は質素ではあったが、手製のサンドイッチをかばんに詰めては週末ごとにあちこちに出かける生活は、まさに夢のようだった。

そして迎えた6月。晴れ渡った青空の下訪れた邸宅の庭で、咲き誇るバラたちがわたしを迎えてくれた。ふと、田舎町の一人の部屋でじっとあの本の写真を眺めていた自分の姿が目に浮かんだ。おーい。わたしはここにいるよ。こんな日が、本当に来るんだよ。そう言ってやりたかった。

英国で学んだ英語を生かした仕事がしたいと胸を膨らませて帰国したわたしを待っていた現実は、甘くはなかった。当時の北海道は北海道拓殖銀行が破綻して間もなく、経済はどん底で、希望の仕事どころか、三十路間近の独身女が就職すること自体が至難の業だった。

それでもいつか、英語を使った仕事がしたい。それがわたしの新しい夢となり、憧れとなった。実現できるかどうかはわからなかったけれど、わたしは何度転職をしても、英語の勉強だけは続けた。時には間があいたり、ほとんど辞書にも触らない時期があったりはしたけれど。

そして2か月程前からわたしはある外資系企業の日本本社でヘルプデスクの仕事をしている。全く未経験の仕事で、一つ一つ勉強しながらの毎日だけれど、英語を使って働けることはこの上ない喜びだ。

強く強く憧れる思いは、それを実現する力を与えてくれる。もしかしたら胸に秘めていたものとは少し形が違うかもしれないが、それでも必ず実現できる気がするのだ。いいなあと思う気持ち。素敵だなあと憧れる気持ち。そんな自分の気持ちを大切にすることから、すべては始まる気がする。

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ほぼ9年前にここまでまとめて書いていたんだなあ、という驚きとともに、やはり書いてから9年もたつと忘れていることに気づかされました。

文中に出てくる本は、華僑出身の著者、王由由(おうゆうゆう)さんの「YuyuのDear England」という本で、美しい写真がちりばめられた、本当に大好きな本でした。

その本が大好きだったことは覚えていましたし、もともと英国の童話や小説が好きだったから英国に対する憧れがあったんだよな、とは思っていたものの、これを読むまで他書店での英国フェアが初めてロンドンに行くきっかけとなったように思っていましたが、書店の英国フェアの前に読んでいたこの本が大きな伏線になっていたことを、9年前の原稿を読んで思い出しました。この本を読んでからパスポート取得の手続きを始めたことも、一緒に旅行に行く友人をわたしの方から誘ったことも、すっかり忘れていたのです。

実は初めてロンドンに行ったときにたくさん写真を撮ってきたのですが、その中には、この本に出てくる写真とよく似た1枚もありました。ポートベロの蚤の市に行ったときに、無意識に本に載っていた写真と同じ場所で思わずシャッターを切っていたのかもしれません。今にして思えば、本当に何度も何度も読み返した本だったので、写真の画像が潜在意識に刻み込まれていたのかも?という気がいたします。

それにつけても、人生は本当に不思議なもので、わたしが初めてのロンドン旅行から帰国して空港でモニターを見たとき、そこに映し出されていたのは阪神大震災直後の神戸でした。機内では全く震災の情報はなかったので、最初は映像の意味がわからず、ただ茫然と見つめていました。次第に大変なことが起こったことがわかっていきましたが、北海道へ向かう飛行機を待つ空港ロビーでも、その場にいる人たちは無言でくいいるようにテレビモニターの神戸の様子を見つめていて、状況を把握していないのか、北欧から札幌へスキージャンプの大会に向かう少年たちが談笑する声だけが、ロビーに響いていました。それから数年後に神戸に引っ越し、さらにその数年後に神戸でようやく英語を使って仕事ができるようになることなるとは思ってもいませんでした。

9年前の自分が書いていた「強く強く憧れる思いは、それを実現する力を与えてくれる」ということは、当時まだナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」もマーフィーの潜在意識も知りませんでしたが、本当にそう信じていましたし、もちろん今も信じています。ただし、この原稿を書いてから現在に至るまでには、それすら疑いそうになるくらいに思い悩んだ時期もありました。いろいろなことを体験して、いろいろなかたとの出会いや井上裕之先生のライフコンパスとの出会いもあり、今ここまでやってこられたことに、本当に感謝する気持ちでいっぱいです。

今日この原稿がでてきたのも、なにか偶然とは思えませんでした。まるでわたしが前回・前々回と書いたブログを神様がお読みになり、「おやおや、お前はずいぶん忘れてしまっているようだね。参考に、これでもご覧」と手渡してくださったようでした。

地方公務員になった理由

そもそもわたしが地方公務員になったのは、「人の役にたちたい」「好きで学んできた英語を生かした仕事がしたい」の二つの理由からだった。

わたしは北海道庁には国際交流課や教育庁などもあり、何かしら英語を使う部署もあったので、たとえすぐには無理だとしても、移動の希望を出し続ければ、いずれは希望の部署に移れるだろう、という希望的観測もあった。

だが、わたしが最初に配属されたのは、土木部の出先機関、室蘭土木現業所、略して「土現(どげん)」。ちょっと内容が伝わりにくい名称だが、「県の土木事務所」の北海道版、と思っていただきたい。

もちろん、わたしには土木の心得は全くない。なんていったって、文学部英語英米文学専攻課程修了、なので土木のどの字も知らなかった。

それなのに、まさかの土木部。

その配属を聞いた時点で「この職場では、本人の意思や大学での専攻は、配属には考慮されない」と気づくべきだったが、この時はまだ自分ののんきな希望的観測を信じていた。

そして、毎日の仕事は、北海道管轄の道路(「道道」(どうどう)という)と海岸の区域決定・変更や、その区域内に看板・電柱などを設置する事業者や個人から「占用料」というお金を徴収したり、「どこそこに電柱たてたい」という申請を受けて、道路法などに照らし合わせ、道路区域占用の許認可事務をしていた。占用料の滞納者のところに督促状をだし、それでも支払いがない方のところへは、洞爺だろうが襟裳岬だろうが、徴収へいく。草刈りや除雪の計画をたて、住民から「どこそこの道道に鹿の死体がある」といわれれば、作業部隊に連絡して処理に行ってもらう。

住民の役に立つ仕事ではあったが、英語のえの字もなく、この仕事を一生続けていくのはどうなんだろう?ということは感じていた。

そんな中、初めてのロンドンへの旅行を経験した。

「わたしは、好きで学んだ英語を生かして働きたかったんじゃないの?」

無意識に蓋をしていた気持ちが、むくむくと頭をもたげ始めた。

 

 

書店の英国フェアで・・・

1993年のある日。

当時わたしは室蘭という北海道の地方都市で、地方公務員をしていた。札幌の実家から離れての一人暮らしは、最初はテレビも電話もなくて、それでもお給料が出るたびにひとつひとつ何かをそろえていく生活が楽しかった。

楽しみといえば、たまに札幌の実家に帰ったり、書店で本を見ては好きな本を買って帰り、一人でゆっくりお茶を飲みながら楽しむことだった。

その日も東室蘭の書店に立ち寄ると、なぜか「英国フェア」をしていた。フェアと言っても、小さな書店なので、コーナーも小さい。それでもイギリスに関する本が並べられ、なぜか「ご自由にお取りください」とロンドンの市内地図まで置いてあった。

わたしは子供のころから本を読むのが好きで、特にイギリスの作家のものが好きだった。だから、イギリスという国自体にも、漠然としたあこがれがあった。自宅の本棚には美しいイングリッシュローズが咲き乱れる写真集や、イギリス菓子の本なども並んでいた。

この日、何冊かの本を手に取った後、わたしが選んだのは、なぜかロンドンのガイドブックだった。その頃、わたしはパスポートも持っていなかったのに。ロンドンの市内地図も何とはなしに手に取り、その日の帰宅後、ベッドサイドの壁に画鋲で張り付けた。

ロンドンのガイドブックをめくりながら、地図の中で地下鉄駅を探したり、寝起きにぼおっと地図を見たり。毎日その地図を眺めながら、「ここに行ってみたいな」「この街でくらしてみたいな」と思いながら暮らしていた。

そして、次にわたしがしたのは、海外旅行のあてもないのに、なぜかパスポートを取ることだった。

さらに、今となってはいきさつも忘れてしまったが、なぜか大学時代の友人とロンドンに旅行に行くことがあっさり決まった。それがわたしの人生初の海外旅行だった。

いっしょに行った友人は短期留学を経験した人だったので、現地につくと会いたい人・行きたいところもあるようで、別行動をとることになり、おかげでわたしは心行くまで行きたかった場所を訪問することになった。

ヴィクトリア&アルバート美術館に二日通って、美術館のカフェのお姉さんに顔を覚えられたり。映画「ノッティングヒルの恋人」にもでてくるポートベロの蚤の市で、本で読んであこがれていたアンティーク、「ミラクル」のブローチを手に入れたり。憧れだったハロッズに足を運び、日ごろは節約癖がついているのに、ここで財布のひもがはずれ(たとしか思えない)、テディベアからトートバッグ、お菓子の型まで買いまくった(ちなみにこの時買ったマフィン型はいまだに健在で、時々バナナマフィンを焼いたりしている)。

あの書店の英国フェアにいってから半年たたずして実際にロンドンを訪れた後。わたしは、それまでもうっすら感じていたけれど、あえてあまり目を向けないようにしていた自分の感情に気がついてしまった。